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慶谷壽信学術資料庫
手稿集
(1)講義・講演等資料
(2)執筆原稿・校正等
(3)書簡1(著書・論文の編集校正関連)
(4)書簡2(諸氏への書簡)
(5)その他
(1)講義・講演等資料
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授業配布資料(インド学目録)
1984年度の都立大の授業における配布資料。もとは1974年度の水谷眞成氏の都立大での集中講義で配布されたもの。慶谷氏の書き込みがある。次項の解説参照。
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授業配布資料(古代インドに於ける音声学の位置)
1984年度の都立大の授業における配布資料。前項の水谷資料とあわせて解説する。
1984 年度(昭和59年-昭和60年)、慶谷氏担当の大学院の授業で「唐鉞」の論文についての講義があった。
私の受講ノートには通年の講義の後期11月15日から水谷眞成氏の資料に関係する記述がある。
配布された水谷真成氏の資料(前項のインド学目録)は「中國語学研究資料としての漢譯佛典 その前論:「佛陀の金口より漢土に至るまで」」と題されている。
資料の行間には慶谷氏の流麗な文字による書き込みがある。
その他に、枠外を中心に稚拙な文字による鉛筆書きの書き込みがある。
後者は吉池のものである。授業では水谷氏資料の解説の後、昭和60年1月10日付けの慶谷氏自筆のノートのコピーが配布された。
「古代インドに於ける音声学の位置」と題されている。
慶谷氏の講義ノートは大学ノートを使用する。右頁のみ使用し、必要に応じて左頁も使用するのが常であった。
資料の配付に当って、将来インド学を志す学生のためにとの前置きが有ったことを記憶している。(2024.7.4 吉池孝一)
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大正大学の有坂秀世講師」
第176回都立大学方言学会(1982.4.17.於東京都立大)における発表のハンドアウト。古代文字資料館には、この慶谷氏のハンドアウトと、研究会後に発行された研究会のあらましを載せた『都立大学方言学会会報 第99号』(B5版、手書き、16頁+写真3枚2頁)がある。
慶谷氏の発表は『国語学』133集(1983)に掲載された。
この論文は、本サイトのPDF版『有坂秀世研究―人と学問―』(2009)の「2.大正大学の有坂秀世講師」で見る事ができる。
『都立大学方言学会会報 第99号』には、平山輝男氏の【あいさつ】、慶谷壽信氏の【発表要旨】、金田一春彦氏・有坂愛彦氏・宇井浩道氏の【質疑応答】、出席者38名の名簿がある。
最後に佐藤進氏撮影になる研究会の様子を写した写真が3枚添付されており、村山七郎氏、金田一春彦氏、有坂愛彦氏、平山輝男氏、宇井浩道氏がみえる。(2024.5.24 吉池孝一)
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有坂秀世博士の学士院賞受賞前後」
早稲田大学中文学会(1983.11.16.於早稲田大学文学部第一会議室)における講演のハンドアウト。ハンドアウトの「有坂秀世博士略年譜」は、その後修正増補されて「有坂秀世博士略年譜稿」(『有坂秀世言語学国語学著述拾遺』三省堂、1989年)に至る。
この『著述拾遺』の略年譜稿は、本サイトのPDF版『有坂秀世研究―人と学問―』の13で見る事ができる。
13の略年譜稿は、『著述拾遺』の略年譜稿に対して、更に修正が加えられたものであり、これが略年譜稿の最終版となる。
なおハンドアウトへの書き込みは、慶谷氏の話の一部を吉池が聞き取って記したもの。
@1枚目左上。16.6.20と16.7.8の間に“16年7月「帽子〜」の論文」”とある。
A2枚目左下。「國語の長母音について」に対して“速記録 音韻論の増補版の裏にあり”とある。
B2枚目左下。『音韻論』に対して“上野国会図書館にあり”とある。
C2枚目左下。16.7.8と16.8の間に“16年9月出版『音韻制度の本質について』” とある。
D2枚目左の左欄外。“じゅうちゅう論”とある。
E3枚目右下。“小倉晋平追悼記念”とある。これは吉池の誤記で“小倉進平”とすべきところ。
後の年譜ではAとCの論文は補充されている。
Bについては、第2刷(2010)の「有坂秀世博士の学士院賞受賞をめぐって」の72頁に【編集者補】(吉池による)として関西館に移管されたことが記されている。
Cは16.8の後に『』ではなく「」として置くべきものである。
吉池の誤記入。Dは『國語音韻史の研究』「カールグレン氏の拗音説を評す」(1〜4)に対するものである。(2024.5.24 吉池孝一)
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言語学者 有坂秀世博士の人と学問」
国民学術協会平成七年度第一回研究懇談会(1995.3.30.於東京会館)における発表のハンドアウト。有坂氏の人と学問のうち、主に学問、vowel-gradationの法則(母音交替の法則)、に就いて述べたもの。
慶谷氏の発表の一部を詳述し「有坂秀世『語勢沿革研究』にみえる「vowel-gradationノ法則」」と題して『日本語研究諸領域の視点』下巻、明治書院(1996)に掲載された。
この論文は、本サイトのPDF版『有坂秀世研究―人と学問―』(2009)のNo.19で見る事ができる。(2024.5.24 吉池孝一)
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言語学者 有坂秀世の生涯」
名古屋大学中国語学文学会 第19回例会(2010.6.26.於名古屋大学文学部大会議室)における講演のハンドアウト。
この講演は「言語学者 有坂秀世の生涯」として『名古屋大学 中国語学文学論集』第22(2010.12)に掲載された。
名古屋大学学術機関リポジトリでPDFの論文として見ることができる。
なおハンドアウトへの書き込みは、慶谷氏の話の一部を吉池が聞き取って記したもの。
@3枚目右下。No.22の日本語の母音交替の挙例に対して“☆ドイツ語の変化から. ヒントを得たと思われる.”とある。
A3枚目右下。No.23の論文「國語にあらはれる一種の母音交替について」に対して“生涯を通じての最高ケッ作”とある。
@の書き込みについて、名大『論集』の論文の中に関連する記述は無いが、有坂秀世(1931)「國語にあらはれる一種の母音交替について」に「以上觀察し來つた三種乃至四種の母音交替は、名詞動詞形容詞にわたつて廣くあらはれてゐるもので、その點に於てはインドゲルマン語のAblautにも比すべきものである。」とある。
この記述と関連するのであろう。
ただし、「インドゲルマン語のAblautにも比すべきもの」という事実の指摘と、慶谷氏の“ヒントを得た”とする認識の間には隔たりがある。
どのようにしてこのような認識に至ったか興味深い。今後の検討事項である。
Aの書き込みについては、名大『論集』中の論文7頁上段に「これは有坂秀世のデビュー作であると同時に、生涯を通じての最高傑作であった。」とある。
これは中国語音韻史の重紐論を含めての認識であるから、或いは人によっては異論が有るかもしれない。(2024.5.24 吉池孝一)
(2)執筆原稿・校正等
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『日本語学大辞典』「有坂秀世」初稿
東京堂出版より2018年に刊行された『日本語学大辞典』において、慶谷氏は「有坂秀世」の項を担当されました。残念ながら、この辞典の完成を見る前に逝去されましたが、その原稿(初稿)は2010年には一旦書き終えています。ここに公開するのは2010年4月6日付の中村雅之宛書簡と、同封されていた初稿のコピーです。同じコピーは吉池孝一・竹越孝の両氏にも送付されています。この初稿は、実際に刊行されたものとは内容が異なっています。初稿は有坂氏の出生地の正確な番地、父鉊蔵氏のこと、さらに同学年に服部四郎氏がいたことにも触れますが、最終稿ではそれらは全て削除されました。また、文の最後を初稿では「『国語音韻史の研究』に対して、日本学士院は1952年2月12日、学士院賞を授与することを決定したが、残念ながら、同年5月12日の授賞式を待たずに、3月13日逝去した。東京都文京区白山の浄土宗・浄雲院心光寺に眠る。」と結んでいますが、最終稿では「1952年学士院賞を授与することに決定した。」で終わっています。これらの改稿が本人の判断か編集部の求めに応じたものかは分かりません。簡潔で客観的な記述になったとも言えますが、初稿に感じられた有坂秀世への思いはかなり薄れたように思います。(2024.4.12 中村雅之)
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「有坂秀世「劣敗者の人生観」について」校正
この文はこれまでに3回、刊行されています。初めは東京都立大学の同人誌『語学漫歩』第八号(1988)、2度目は古代文字資料館発行の『語学漫歩選』(2008)、3度目は同じく古代文字資料館発行の『有坂秀世研究−人と学問−』(2009)です。また、この文に附された「劣敗者の人生観」の部分は『有坂秀世言語学国語学著述拾遺』(三省堂、1989)にも収録されています。刊行の度に、字体についての細かい校正が行われました。最初の1988年の段階では、やっと普及しつつあったワープロ専用機で打ち込んだので、当時の技術では望むような字体を表示・印刷することは出来ませんでした。20年後の『語学漫歩選』では編集担当の竹越孝氏が執筆者の要求にすべて応え、完璧な出来になっています。その際の慶谷・竹越両氏の往復書簡が下の(3)書簡1にあるので、それで状況がうかがえるでしょう。ここに公開するのは、その際の校正で「責了」と記されたものです。これを見ただけでも、字体へのこだわりがよく分かります。なお、翌年の『有坂秀世研究−人と学問−』では、さらに内容の一部訂正を(補)として加えています。(2024.4.12 中村雅之)
(3)書簡1(著書・論文の編集校正関連)
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『語学漫歩選』編集に関わる書簡
『語学漫歩選』(古代文字資料館、2008)に慶谷壽信「有坂秀世「劣敗者の人生観」について」を収録するに際しての、編集担当の竹越孝氏と慶谷壽信氏の往復書簡。竹越氏の文章はパソコンに保存されていたもので、今回往復書簡の体裁を整えるために、元のWordファイルのレイアウトを大幅に変えている。
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『有坂秀世研究』編集に関わる書簡その1
『有坂秀世研究』(古代文字資料館、2009)の発行と編集に関する書簡。2009年1月から9月までのもの。[吉池→慶谷]の書簡は最初の一通以外は残っておらず、[竹越→慶谷]の書簡も葉書で出したものは残っていないため、往復書簡の「往」には欠けている部分がある。
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『有坂秀世研究』編集に関わる書簡その2
前項に続く、2009年10月から2011年1月までのもの。完成した書籍の発送、正誤表、第2刷(2010年12月)の発行に関わる内容。2010年4月に編集担当だった竹越氏が神戸に転勤したため、書簡は[慶谷→吉池]が中心。この時期の[吉池→慶谷]書簡は残されていないため、往復書簡ではなく、[慶谷→吉池]および[慶谷→竹越]のみになっている。
(4)書簡2(諸氏への書簡)
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古屋昭弘氏宛て書簡2通
一通目は1992年に古屋氏が在外研究で北京大学に滞在されていた時のもの、二通目は2005年に慶谷氏が長崎外国語大学を退職された直後のもの。
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吉池孝一氏宛て葉書2通
2007年と2009年の吉池氏宛て葉書。有坂秀世『音韻論』の誤植に関する内容。吉池氏による詳細な解説付き。
(5)その他
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推薦状
1985年執筆。神戸市外国語大学が教員を公募した際に、太田斎氏を推薦したもの。
1.
開設のことば
2.
慶谷壽信氏略年譜
3.
慶谷壽信氏著述目録
4.
対談集「慶谷壽信先生の学問などについて」(吉池孝一、中村雅之)
5.手稿集
6.
関連資料
7.
『有坂秀世研究−人と学問−』(慶谷壽信、2010、第2刷)
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