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慶谷壽信学術資料庫

手稿集

(1)講義・講演等資料(準備中)

(2)執筆原稿・校正等

『日本語学大辞典』「有坂秀世」初稿
 東京堂出版より2018年に刊行された『日本語学大辞典』において、慶谷氏は「有坂秀世」の項を担当されました。残念ながら、この辞典の完成を見る前に逝去されましたが、その原稿(初稿)は2010年には一旦書き終えています。ここに公開するのは2010年4月6日付の中村雅之宛書簡と、同封されていた初稿のコピーです。同じコピーは吉池孝一・竹越孝の両氏にも送付されています。この初稿は、実際に刊行されたものとは内容が異なっています。初稿は有坂氏の出生地の正確な番地、父鉊蔵氏のこと、さらに同学年に服部四郎氏がいたことにも触れますが、最終稿ではそれらは全て削除されました。また、文の最後を初稿では「『国語音韻史の研究』に対して、日本学士院は1952年2月12日、学士院賞を授与することを決定したが、残念ながら、同年5月12日の授賞式を待たずに、3月13日逝去した。東京都文京区白山の浄土宗・浄雲院心光寺に眠る。」と結んでいますが、最終稿では「1952年学士院賞を授与することに決定した。」で終わっています。これらの改稿が本人の判断か編集部の求めに応じたものかは分かりません。簡潔で客観的な記述になったとも言えますが、初稿に感じられた有坂秀世への思いはかなり薄れたように思います。(2024.4.12 中村雅之)
「有坂秀世「劣敗者の人生観」について」校正
 この文はこれまでに3回、刊行されています。初めは東京都立大学の同人誌『語学漫歩』第八号(1988)、2度目は古代文字資料館発行の『語学漫歩選』(2008)、3度目は同じく古代文字資料館発行の『有坂秀世研究−人と学問−』(2009)です。また、この文に附された「劣敗者の人生観」の部分は『有坂秀世言語学国語学著述拾遺』(三省堂、1989)にも収録されています。刊行の度に、字体についての細かい校正が行われました。最初の1988年の段階では、やっと普及しつつあったワープロ専用機で打ち込んだので、当時の技術では望むような字体を表示・印刷することは出来ませんでした。20年後の『語学漫歩選』では編集担当の竹越孝氏が執筆者の要求にすべて応え、完璧な出来になっています。その際の慶谷・竹越両氏の往復書簡が下の(3)書簡1にあるので、それで状況がうかがえるでしょう。ここに公開するのは、その際の校正で「責了」と記されたものです。これを見ただけでも、字体へのこだわりがよく分かります。なお、翌年の『有坂秀世研究−人と学問−』では、さらに内容の一部訂正を(補)として加えています。(2024.4.12 中村雅之)

(3)書簡1(著書・論文の編集校正関連)

『語学漫歩選』編集に関わる書簡
 『語学漫歩選』(古代文字資料館、2008)に慶谷壽信「有坂秀世「劣敗者の人生観」について」を収録するに際しての、編集担当の竹越孝氏と慶谷壽信氏の往復書簡。竹越氏の文章はパソコンに保存されていたもので、今回往復書簡の体裁を整えるために、元のWordファイルのレイアウトを大幅に変えている。
『有坂秀世研究』編集に関わる書簡その1
 『有坂秀世研究』(古代文字資料館、2009)の発行と編集に関する書簡。2009年1月から9月までのもの。[吉池→慶谷]の書簡は最初の一通以外は残っておらず、[竹越→慶谷]の書簡も葉書で出したものは残っていないため、往復書簡の「往」には欠けている部分がある。
『有坂秀世研究』編集に関わる書簡その2
 前項に続く、2009年10月から2011年1月までのもの。完成した書籍の発送、正誤表、第2刷(2010年12月)の発行に関わる内容。2010年4月に編集担当だった竹越氏が神戸に転勤したため、書簡は[慶谷→吉池]が中心。この時期の[吉池→慶谷]書簡は残されていないため、往復書簡ではなく、[慶谷→吉池]および[慶谷→竹越]のみになっている。

(4)書簡2(諸氏への書簡)

古屋昭弘氏宛て書簡2通
 一通目は1992年に古屋氏が在外研究で北京大学に滞在されていた時のもの、二通目は2005年に慶谷氏が長崎外国語大学を退職された直後のもの。
吉池孝一氏宛て葉書2通
 2007年と2009年の吉池氏宛て葉書。有坂秀世『音韻論』の誤植に関する内容。吉池氏による詳細な解説付き。

(5)その他
推薦状
 1985年執筆。神戸市外国語大学が教員を公募した際に、太田斎氏を推薦したもの。


1.開設のことば

2.慶谷壽信氏略年譜

3.慶谷壽信氏著述目録

4.対談集「慶谷壽信先生の学問などについて」(吉池孝一、中村雅之)

5.手稿集

6.関連資料

7.『有坂秀世研究−人と学問−』(慶谷壽信、2010、第2刷)


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